シルバーウルフ

岳南稲門会 川島泰彦

(昭和43年政経学部卒)

 2021年8月28日、富士市はアンドラ レビテ ラトビア共和国大統領婦人とトレイア マシー駐日大使の訪問を受けた。婦人は気品に溢れ暖かい雰囲気の素晴らしい方だったが、パンデミック下日本政府の外国要人を迎える規制は厳しく滞在時間は30分、人数も限定されゆっくり対話をすることが不可能なのが残念だった。訪問目的は2020東京オリンピック、パラリンピックラトビアチームのホストタウン富士市に感謝を伝える事でした。小長井市長に感謝の言葉を伝えられた後、ホストタウンになるきっかけを作り10年以上両国ボーイスカウト交流を続けた私にねぎらいの言葉をかけられた。この事は私には限りなく名誉であり喜びだった。きっとシルバーウルフが導いてくれたものと思わずにいられなかった。

 シルバーウルフはボースカウト(BS)英国連盟の最高勲章であり英国だけでなく世界のBS関係者と国家元首クラスに授与されてきた。1921年昭和天皇が皇太子時代、大正天皇の名代として英国訪問の際、BS運動創設者ベーデン パウエル卿より献上されたのが日本の第一号であり、その後ボーイスカウト発展に尽力された佐野常羽伯爵に1931年授与された。以来、日本における受章者はいない。日本には2つしかウルフ章がない。実は三つ目が存在する。それは1933年ラトビア共和国のスカウター ベリザーズ ラジン氏に手渡されたシルバーウルフである。そのウルフはなぜか私の下にある。以下その経緯を述べてみたい。

 1968年、アメリカ留学を希望していた私は早稲田大学を卒業した年、諸先輩のアドバイスもあり米国政府より奨学金を得られるフルブライト大学院留学生選考試験を受けた。結果は見事な失敗であった。夢を実現すべく、半年分の生活費を親に工面してもらい、田子浦港から一人貨物船に乗り込みアメリカを目指した。幾つかの大学と入学交渉の結果オレゴン州立大学から許可が得られたが当時米国留学は容易でなく移民局から保証人を探すよう求められ、あてもなく困っていた。そんな私を助けてくれたのがYMCAに勤務していた亡命ラトビア人のベリザーズ ラジン氏であった。ラジン氏はかって政府高官でありラトビアボーイスカウトの卓越した指導者だったこともあり保証人を探してくれ、親身になって励まし助けてくれた。これが機縁となってラトビアと日本を語りつつ深い友情を育んだ。時にはラトビアに話題が及ぶと【祖国ラトビアは滅んでしまったが必ず蘇る】と信念を述べる愛国者であった。ラジン氏のおかげで私はキャンパスで働いたり、夏にはアラスカで重労働に就いたりした言わば苦学生ではあったがアメリカを100%楽しみ、学ぶことができた。私が帰国した数年後の1974年ラジン氏の急逝を知った。その後弔問に伺うと婦人から彼が命より大切にしていたシルバーウルフを遺品として渡された。

 1989年、ベルリンの壁が崩壊し共産主義国が次々と民主化を果たし、1991年ラトビア共和国も再独立を果たし、ボーイスカウトの再結成も知った。ラジン氏の言葉が真実となった。この時私はウルフのラトビア返還を決意した。

 2007年、富士から15名のスカウターの手でボーイスカウト運動100周年を祝う英国開催の記念ジャンボリー会場に運ばれたシルバーウルフはラトビアスカウトに返還された。私と共に富士の麓に30年余り過ごしたウルフは現在ラトビア歴史博物館で静かに眠りに就いている。  2008年ウルフ返還を機にボーイスカウト富士地区とラトビアスカウト機構との間で毎年相互にスカウト交流が始まり現在に至っている。これまで日・ラ両国のスカウト37名が参加したこのプログラムを私たちはFriendship Project と呼んでいる。今年2021年は日・ラ国交100年目にあたる。この交流はラトビア大使館の100周年記念のホームページに掲載されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。