大学時代の思い出

仲澤昭夫 

昭和42年第一商学部卒業

大学へ入ったのは昭和38年4月で、東京オリンピックの1年前で、それに伴う工事が盛んに東京中で行われていた時期でした。下宿が京王線の明大前、新宿駅近くで線路が地下に入る工事が延々と続いて非常に埃ぽくて閉口しました。商学部に所属したけれど授業がしっくりこず、最初に受かった文学部(親父に反対されて叶わず)の授業に顔を出しては無聊を慰めていました。ある時文学部2部で次の語学の授業を受けるべく机の隣で私が立ち去るのを待っていた女学生と瞳が遭いました。吉永小百合さんでした。物静かで清楚で凛とした姿は他の女学生とは明らかに違っていました。濃紺のスカートと白のブラウスとシンプルな身装ながら際立った顔の白さでした。女性の肌が一番美しく見えるのは朱鷺の羽の色―あるいは淡い茜色だと言われていましたが流石に女優は違う、衣通姫も斯やあらむと今でも鮮明に覚えています。時間ギリギリまでノートを取っていた事を詫びた私に「どういたしまして」と返した聲は映画のシーンそのものでした。着席すると直ぐに教科書を開いて真剣な眼差しで勉強する姿に立ち去り難くしばらく見蕩れていました。それに比べると当時商学部に居た女学生?で、親(田中角栄元首相)に似た擦れ声でせっかちな物言い、一日中りんりんしゃんしゃん鳴っているのが鈴ならまだ堪えられるのに、銅鑼声では始末に負えない。姦しい程の多舌で周囲を閉口させていたのがかの有名な田中真紀子氏でした。日本の婦女子の在るべき姿を想う時両者は対蹠的な典型でした。早慶戦には省線の始発位の早い時間に乗ってクラスの仲間と信濃町で待ち合わせをして神宮球場に並びました。試合開始が午後1時ですから途方もない待ち時間があり、その間各々の故郷、出身高校、部活、政治、宗教果ては女の子の話しで盛り上がり親密度が増し、その繋がりが50何年以上続く毎年のクラス会持続の源になっている。当時早稲田は連続5シーズンBクラスで悔しい思いをしてましたが、監督が石井連蔵氏から石井藤吉郎氏に代わった途端優勝するという奇跡に遭遇いました。声を枯らして歌つた応援歌、校歌、早稲田の栄光など一塁側内野席から外野席まで一団となった光景に、まさに早稲田大学の持つ心の繋がりを痛感しました。学校で祝勝会があり当時発売したばかりのサントリービールが2万本?提供されるとの話でみんな球場から大学まで行進しました。我々は新宿で一行から別れ歌舞伎町で飲みだしました。何処の呑み屋にも先輩達が居て角帽姿(早慶戦には必ず被って行った)の我々に生ビールを奢ってくれて早稲田の佳さをしみじみと実感しました。今でも旅先のホテルのどこかの部屋で都の西北早稲田の森にーーと聞こえると血が騒ぎ出し思わずドアを開けて這入りたくなるのも校歌の持つカリスマ性、時代を超えた早稲田マンの心の繋がりではないかと思ひます。

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