「ブンのおばちゃん」
岳南稲門会 幹事 原 孝至
(2021.4執筆)
2000年4月1日,ミレニアム(死語?)新入生としての入学式を終え,本キャンで迷子になっていた私は,ふくよかな体型で髭を蓄えた先輩であろう人に「法学部の8号館はどこですか?」と声を掛けた。すると,その人は,私の質問などお構いなしに,東北なまりで,「おめぇ,野球やっか?」「麻雀はやっか?」と。いかにも早稲田らしいコミュニケーションに臆することなく,「はい,どちらも。」と答えると,「そいじゃあ,来いな。」。私はその時,科目登録の手続をしなければならなかったのだが,早稲田が「こういう」ところであるというイメージは前もって持っていたので,科目登録手続はまたにして,その東北なまりの先輩についていくことにした。
東北なまりの先輩は,大隈先生の像を背に図書館の方に進み,15号館に私を案内した。薄暗い15号館は1階にラウンジがあり,そのテーブルの一つに20代中盤くらいに見える先輩らしき男数人がたむろしており,東北なまりの先輩は,「ひとり,釣ってきたよ。」と私を紹介した。私は,急な展開に驚きながらも簡単に自己紹介をした。早稲田が「8年制の大学」とは聞いてはいたが,入学までに数年かかって,さらに卒業まで8年かかる大学とは知らなかった。4浪4留と自己紹介をしてくれた先輩は,私が麻雀を打てると知って,「じゃあ,行くか。」と。雀荘に連れていかれることは何となくわかったが,まさか大学を出て5秒で着くとは思っていなかった。連れていかれた雀荘は,北門から5秒,グランド坂にある,その名も「BUNMEIDO(文明堂)」。通称,「ブン」。店の名前だけを聞いたら,決して雀荘だとは思わない。後に知ったが,最初は,本屋だったという。しかし,本を売るよりも雀卓をおいた方が儲かるので,いつしか雀荘に業態を変えてしまったのだとか。さすがは早稲田。「牌はペンより強し。」(笑)
戦後間もない時期に建てられたと思われるコンクリ造りの1階の,床屋の扉のようなドアを開けると,不思議な素材の黒い服をきた小さいおばちゃんが,「はい,いらっしゃい。あれ,新しい人ね。」と歳のわりには甲高い声で私の方を見て言った。これに,4浪4留の先輩が,「お,これ,今日からウチに入ったから。おばちゃん,よろしくね。ほら,お前,挨拶!」と私に自己紹介を促したので私はおばちゃんに挨拶をして,法学部に入学したことを伝えると,おばちゃんは,「可愛いわね。法学部なら,田辺さんの後輩ねー。」と。どうやら,東北なまりの先輩は,田辺さんというらしい。田辺さん,法学部なら,8号館がどこか教えてくれればよかったのに…。
そんなことを言いながら,さっそく親を決めて,東1局。レートも聞かずにとにもかくにも対局を開始。ついさっき初めて会った東北なまりの田辺さんと,4浪4留の先輩,それからもう一人眠そうにしている先輩となぜ自分が卓を囲んでいるのかよくわからなかったが,早稲田とは「こういうところ」なのだと自分を納得させ,配牌を開けた。
対局開始は確か,午後3時ころだった。半荘何回やったかわからない。気付けば,夜10時くらいになっていた。すると,眠そうにしている先輩が,「おばちゃん,ラーメンちょうだい。」と。そして,「お前も食うか?」と。眠そうにしている先輩,優しいじゃないか,その言葉に甘えて,私もラーメンを頼んだ。10分ちょっとして運ばれてきたのは,袋タイプのインスタントラーメンに大量の茹でた野菜が乗ったおばちゃん特製ラーメン。250円也。これが,妙に美味い。しかし,雀荘で汁物というのは気を遣う。一般的に雀荘で汁物は御法度だと思うのだが,ブンではそうでないらしい。ラーメンを食べ終わると,おばちゃんが,「それじゃあ,あんたち,移動してぇ~。」と。なるほど,徹マン組は2階なのか。深夜0時すぎは営業してはいけないという,風営法の問題だ。我々が2階に移動して,おばちゃんはというと,小さい身体をさらに小さくしてソファーに身を埋め,眠っている。「勝手に打ってろ」ということのようで,我々はおばちゃんが寝ていることを気にすることなく,ひたすら対局を続けた。そして,疲労もピークの朝7時,おばちゃん特製のトーストサンドが運ばれてくる。どうやら,朝食はサービスらしい。これまた,妙に美味い…。
朝9時ころだったか,ようやく長い闘牌が終わった。結局,レートは「てんご」で,先輩らは,情け容赦なく,新入生の私からかっぱいだ。ここで解散して帰るのだと思ったら,先輩らは,「いくぞ。」と。私からかっぱいだ金があるからか,タクシーを止め,告げた行先は,目白の日本女子大だった。どうやら日本女子大の入学式に乱入して,女子学生をマネージャーとして勧誘する,そういうミッションの日だった。私は,この時,ようやくこの集団が野球サークルの集団であることを理解した。日本女子大に着くと,そこには,理工学部出身のなで肩の先輩,岡山出身という目の細い先輩もいた。私も先輩らについて女子学生に声を掛けるが,我々のルックスの問題か,なかなかうまくいかない。一日頑張ってみたものの,成果はゼロ。夕刻,いよいよ解散するかと思いきや,皆で向かった先は,また,ブン…。床屋の扉のようなドアを開ければ,昨日とおなじく,何とも言えない素材の黒い服に身を包んだおばちゃんが,「あら,あんたたち,おかえり。」と。親決め,ラーメン,2階へ移動,そして,トーストサンド…。
私の早稲田での学生生活は,こうして始まった。その野球サークルの先輩たちとの時間が妙に心地よく,講義もそこそこに,先輩らがたまる15号館ラウ
ンジにばかり行くようになった。4人揃えばブンに行く。15号館のラウンジに誰も居なければブンに行く。そうすれば,みんながいる。今の学生だったらグループLINEでどこにいるか情報共有ができるのだろうが,私が学生だったことはそんなものはない。でも,それでも,すぐに皆が集うことができた。ブンが実家の居間のようだった。
ブンは,不思議な店だった。おばちゃん一人で営業しているのに,24時間,365日営業している。おばちゃんは,お茶でもなくコーヒーでもなく,ちょっと甘い紅茶を出してくれる。おばちゃん特製ラーメンの具材の野菜は,日々,変わる。時に,しらたきが入っていたりする。一番ひどい時は,コロッケが乗っていた。缶のカルピスを販売していたが,「カルピスウオター」と表示して販売していた。おばちゃん特製ラーメンの他の唯一のメニューであったカレー,これだけは特筆すべき点はない。普通に美味かった。ただ,おばちゃんは,毎日,カレーを作っていたのだろうか。だとしたら,いつ,作っていたのだろうか。頼めばいつでも出てきたが,おばちゃんがカレーを作っているところは見たことがない。
大学院を卒業するまでの7年間,ブンにはよく通った。ブンに行かない日は,ほとんどなかった。自分が卓から外れた時は,おばちゃんと世間話をしていた。自分のことをおばちゃんによく話したし,おばちゃんの身の上話もよく聞いた。大学院に受かった時,おばちゃんは喜んでくれた。大学院を卒業して司法試験に受かったと報告した時も,おばちゃんは私を自分の息子のように褒めてくれた。
その後,ほどなくしておばちゃんから連絡がきた。お店を閉めると。学生の麻雀離れが顕著になってきたこと,おばちゃんが歳も歳でだんだんきつくなってきたことが閉店の理由だと。寂しいが,仕方ない。もちろん,閉店の日には,しっかりお別れの挨拶に行った。
レトロなブンの建物は,今は,もうない。グランド坂を通るたび,あの床屋の扉のようなドアがある気がして,そのドアを押してみれば,何とも言えない素材の黒い服に身を包んだおばちゃんが「いらっしゃい。」と声を掛けてくれそうな気がするが,今,そこには5階建ての素敵なマンションがあって,ブンがあった1階には,インドカレー屋さんが入っている。おばちゃんとは,今も少しだけ交流があって,おばちゃんがどうしているか,私は知っている。今,おばちゃんは,雀荘ではなくて,マンション経営をしている。そして,5階建ての素敵なマンションの最上階におばちゃんは住んでいて,1階のカレー屋さんには,大家として君臨している。ブンのおばちゃんは,今は,大家のおばちゃん。おばちゃん,いつまでもお元気で…。(完)