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小さな歌声から、球場包む大斉唱へ

 戦前最後の早慶戦として語り継がれる出陣学徒壮行早慶戦は、戦局が日ごとに緊迫の度を加える昭和18年(1943年)10月16日、快晴の早稲田・戸塚球場で行われた。  選手も応援の一般学生も、あすは学徒動員によって戦地に駆り […]

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試合開始繰り上げのからくり

 早稲田当局の承諾は得られないままながら、ともかくも試合日時は決まった。後は出陣学徒壮行早慶戦を粛々と行うだけ。それで大学側から処分があるのなら、甘んじて受ければいい。  こう腹をくくった早稲田野球部マネジャーの相田暢一 […]

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野球は心身を鍛える見事に実証

 文部省が出した昭和18年(1943年)春のリーグ解散令も何のその、飛田穂洲率いる早稲田野球部は意気軒高だった。いち早く野球部そのものを解散してしまった明治をはじめ、各校野球部が次々に活動を停止していく中で、早稲田だけは […]

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文部省の狡猾な弾圧 早大動けず

 慶応の小泉信三塾長と平井新野球部長には、ただただ頭が下がる思いでした。煮え切らない早稲田の態度にも腹を立てず、早慶戦の実現を待ち続けていただいたわけですから  早稲田当局の説得に当たる一方で、慶応との折衝の窓口となった […]

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一身賭し早大総長に直談判

 相田暢一が北海道の小樽中から早稲田野球部に入部したのは、昭和15年(1940年)の春だった。大正期の早稲田で強肩強打の名捕手として名をはせ、卒業後は函館オーシャンでプレーし、都市対抗野球の久慈賞にその名を残す久慈次郎に […]

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出陣する学生の餞に試合を熱望

ひたひたと押し寄せる戦時色。昭和10年代後半の東京六大学野球は、さながら敵国アメリカ生まれの野球に対して弾圧の姿勢を強める軍部への抵抗の時代でもあった。そして、この不幸な時代における野球関係者の情熱の結晶が、太平洋戦争で […]

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