小さな歌声から、球場包む大斉唱へ

 戦前最後の早慶戦として語り継がれる出陣学徒壮行早慶戦は、戦局が日ごとに緊迫の度を加える昭和18年(1943年)10月16日、快晴の早稲田・戸塚球場で行われた。

 選手も応援の一般学生も、あすは学徒動員によって戦地に駆り出される身である。球場全体が厳粛な空気に包まれる中での、雄々しく、同時に切なすぎる一戦。誰しもの胸にこれで野球は終わりの思いが去来し、それはあわせて青春との決別を意味していた。

 出陣する学徒へのはなむけにという慶応の提案に、数々の難題をはねのけて実現にこぎつけたマネジャーの相田暢一をはじめとする早稲田野球部。スタンドは両校学生でぎっしり埋まり、両校選手の記念撮影の後、午前11時55分、明治OB天知俊一球審の右手が挙がって試合は始まった。

 勝敗は明らかだった。権力側の野球弾圧にもめげず、飛田穂洲の陣頭指揮のもとで野球の孤塁を守り続けてきた早稲田に対し、一度は部を解散し、郷里に帰っていた大島信雄や別当薫ら主力選手を呼び戻して、おっとり刀で臨んだ慶応。

 練習量の差は歴然と試合に表れた。慶応はエースの大島が肩の痛みを訴えて登板できず、経験の浅い久保木清を先発させる苦肉の布陣。案の定、練習不足による球威のなさは覆いようがなく、三回の大量失点で勝敗は決した。打線も早稲田のエース岡本忠之を打てず、得点は二回の1点のみ。プレーボールからちょうど2時間が経過した午後1時55分、早稲田の勝利で試合は終わった。10-1という思わぬ大差だった。

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 だが、両校選手にも、応援の学生たちにも、勝敗はどうでもいいことだった。この一戦が、敗色-濃い戦地に向かうため、学窓にきっぱりと別れを告げる悲しい儀式であることを、誰もが知っていたからだ。

 早稲田と慶応に分かれてはいても、全員の心は一つだった。試合終了のあいさつに続き、両校校歌が斉唱される。やがて早稲田応援席からがんばれ、慶応!の声が飛ぶと、慶応応援席からはありがとーっの返礼。さらに、このままでは球場を去り難い思いがそうさせたのだろう。どちらからともなく戦場で会おうな元気で行けよという声が飛び交い、しばし両校学生は別れを惜しんだのである。

 そして、歴史に残る感動的なシーンが出来(しゅったい)したのは次の瞬間だった。バックネット裏付近からわき起こった小さな歌声が徐々に広がりを見せ、やがては大斉唱となって球場全体を包んだのである。それは『海ゆかば』の荘重な旋律だった。

 海ゆかば水漬く屍 山ゆかば草むす屍 応援席の一般学生ばかりか、グラウンドの両校選手も、ほおを伝う涙をぬぐおうともせずに歌い続けた。勝利も敗北も、敵も味方もなく、早慶両校がこれほど心を一つにしたことは、かつてなかったことだった。わが身を待ち受けているのは、光明のかけらも見えない戦争である。野球、そして青春との決別に、全員がその厳粛な感動の渦に身を任せた。

小さな歌声に端を発して、一大斉唱に発展した『海ゆかば』。

 が、自然発生とはいっても、歌い始めた人物は誰だったのか。それは、この一戦を実現させた功労者の一人で、ネット裏にいた相田暢一その人だった。私自身、あの歌を歌いたかったし、あの場に最もふさわしい歌だと思ったからなんです。そして相田は、こうも続けた。

 頭が下がったのは慶応の応援学生たちです。塵(ちり)ひとつ残さずにスタンドを清掃した後に、4列ずつ整列して退場したんです。それも含めて、戦前最後の野球にふさわしく、語り継ぎたい素晴らしい早慶戦だったと思います

この項おわり 富永俊治…

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