試合開始繰り上げのからくり

 早稲田当局の承諾は得られないままながら、ともかくも試合日時は決まった。後は出陣学徒壮行早慶戦を粛々と行うだけ。それで大学側から処分があるのなら、甘んじて受ければいい。

 こう腹をくくった早稲田野球部マネジャーの相田暢一は、むしろすがすがしい思いでその日を待った。しかし、試合前日の10月15日になって、この企ては一部の新聞が報じたことで大学当局の知るところとなる。相田は当局に呼び出され、3時間もこってり油を絞られる。

 だが、この期に及んでは大学側も試合を中止させるわけにもいかず、正午に予定している試合開始時間の繰り上げを要求するにとどまった。人出の少ない午前中に、さっさと試合を済ませたいというのが大学側の本音だったからだ。

 わかりました。いともあっさりと、相田はこの要求を受けいれる。そして大学当局を刺激しないため、球場入り口に午前8時開始と掲示する念の入れよう。が、それもこれも相田がとっさに考えた作戦だったのである。大学側が一杯食わされたと気づいたのは、試合当日になってからだった。その種明かしは後回しにするとして、なぜ早稲田当局がかたくなだったのかといえば、理由の一つが前年の昭和17年(1942年)4月、春季リーグ戦開幕日における米軍の空襲にあった。

 試合開始の1時間ほど前、神宮球場周辺に低空で飛来した米軍機が、早稲田に近い新宿・矢来町付近を爆撃。米軍による日本初の空襲で試合は中止されたのだが、相田によればこの一件で、大学当局は人が集まる催しに、責任上の問題から必要以上に警戒心を持つようになったという。

 そして相田は最終的に試合を黙認してくれた大学に感謝していると語りながら、こんなエピソードも打ち明ける。

 後に出征した相田は、慶応バスケットボール部の主将だった人物と親しくなる。すると、その友人は夜になると手紙書きに没頭している。誰あてなんだと聞くと、友人の答えは小泉(信三)塾長への近況報告だよ。慶応の運動部の連中は、みんな塾長に書いているよだった。驚きました、早稲田と慶応の違いに。慶応には、小泉塾長の思想が根づいているんだなあと思いましたね。頑迷な早稲田当局との交渉に神経をすり減らした相田には、当然の感想だったろう。

××

 明けて10月16日、空は快晴だった。前日、早稲田野球部は飛田穂洲の号令のもと、客人を迎える礼儀だと、グラウンドからスタンド、便所に至るまでピカピカに磨き上げた。飛田自らバケツを持っての便所掃除である。準備は万端だった。

 ところで午前8時開始はどうなったか。これが相田の知恵だった。8時開始ではあっても、何も試合が始まるわけではない。始まったのは早稲田の練習だった。

 それも、できるだけゆっくりとしたぺースで。やがて慶応の面々が戸塚に到着し、練習をを始める。

 そんなこんなで、試合は早稲田当局の意向に左右されず、予定より1時間早めただけの正午開始となったのである。

 スタンドはといえば、両校学生でぎっしりと埋まっている。そして試合開始間近に、慶応塾長の小泉信三が笑顔で姿を見せる。どうぞ、こちらへ。

 出迎えた飛田や相田が小泉をネット裏の特別席に案内しようとすると、小泉は会釈をしながらありがとう。でも、私は学生と一緒にいる方が楽しいんですと言って、慶応応援席に足を運んだのである。

あのときの小泉先生の後ろ姿を見て、思わず涙がこぼれましたと相田。感動的なシーンを織り込みながら、歴史的な一戦は、いよいよプレーボールの時を迎えようとしていた。

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