文部省の狡猾な弾圧 早大動けず
慶応の小泉信三塾長と平井新野球部長には、ただただ頭が下がる思いでした。煮え切らない早稲田の態度にも腹を立てず、早慶戦の実現を待ち続けていただいたわけですから
早稲田当局の説得に当たる一方で、慶応との折衝の窓口となった野球部マネジャーの相田暢一は、遅々として進まぬ交渉結果を慶応側に報告するたびに赤面し、身も細る思いだったと打ち明ける。
学徒出陣が間近に迫った昭和18年(1943年)秋、小泉塾長から直々に持ち掛けられた出陣学徒壮行早慶戦に対し、それほどまでに早稲田当局の野球忌避の姿勢はかたくなだった。
慶応の申し出に、一も二もなく試合決行を決意した早稲田野球部。大学の了解を求めるため、相田は総長の田中穂積に試合挙行の意義を説き、野球部長の外岡茂十郎は学内における反野球の急先鋒(せんぽう)である練成部の説得にあたったが、にべもない答えが返るだけで、事態は進展しないまま。
事情を知った慶応側が神宮球場が駄目というなら、場所は早稲田の戸塚でもいいと助け舟を出し、相田がその旨を当局にぶつけると、答えは戸塚は地元。事故でも起きたら、こんな時勢に早稲田は何をしているのかと世間から言われる。これらの責任は誰が取るのか。
狭量というか、野球への露骨ないやがらせというか、慶応の度量の広さを思うにつけ、相田は情けなさで歯ぎしりをする日々が続いた。
こんなこともあった。試合を許可しない理由づけにするため、早稲田当局は学内有力者を対象とした試合実施の賛否を問う投票を行った。反対者が多数を占めるという計算のもとでの投票だった
が、外岡の必死の説得工作が功を奏し、わずかの差で賛成多数という思わぬ結果に終わる。ところが、これに対する当局の弁は総長が不賛成だから見合わせてくれという何のための投票か分からぬ理不尽なもの。
在野精神学の独立の学風はどこへやら、ただただ軍部・文部・省の顔色をうかがい、世評を気にするだけだったのである。
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早稲田野球部には、日本野球の父と呼ばれる初代部長・安部磯雄の精神を受け継ぐ飛田穂洲という学生野球界の大御所がいた。この間、飛田は野球を白眼視する勢力に立ち向かったのだが、その飛田の奔走をもってしても巨大な権力を動かすことはできなかった。この年、飛田は東京六大学野球連盟理事の立場で軍部や文部省の野球に対する仕打ちは、幾千幾万にのぼるであろう野球愛好家にどんなに不快の念を抱かせているか知れないと、陸軍に野球弾圧を抗議。軍部は決して野球を排撃してはいない。この際、軍に協力してほしいだけだとする弁明に、飛田が然らば文部省が単独で野球を圧迫しているのかとたたみかけると、陸軍の答えは文部省のことは知らないの一点張り。議論は平行線をたどるばかりだった。
やむなく飛田らは文部省を標的に定め、その任には各大学総長の中で最も野球に理解のあった慶応塾長の小泉があたる。首相官邸の一室で開かれた体育審議会の席上、小泉は野球弾圧の無意味さを説き、文部省の反省を促した。堂々たる小泉の弁論の前に、返す言葉もなく押し黙ったままの役人たち。審議会は小泉の正論の一方的勝利に終わった、かに思えた。
が、数日後に文部省が出した通達は、東京六大学野球のリーグ解散を命じ、中等学校以下の野球を禁止するという最悪の内容。小泉の前では無言だったことを思えば、権力側の狡猾(こうかつ)に過ぎる措置であり、以後の早慶戦実施をめぐる早稲田当局のかたくなさも、この通達破りを恐れたからに他ならなかった。