野球は心身を鍛える見事に実証

 文部省が出した昭和18年(1943年)春のリーグ解散令も何のその、飛田穂洲率いる早稲田野球部は意気軒高だった。いち早く野球部そのものを解散してしまった明治をはじめ、各校野球部が次々に活動を停止していく中で、早稲田だけは飛田の指導のもと、戸塚球場で練習を続行した。

 最初は早稲田に近い立教を誘って合同練習や練習試合を行いもしたが、やがて立教も部を解散して、野球を続けているのは早稲田だけとなった。六大学の孤塁を死守する気概。野球を続けるかどうかは各大学総長の裁量に任されたこともあったが、早稲田当局が野球に冷淡であればあるだけ、飛田や部員たちの日々の練習は、それ以前よりも熱がこもった。

むろん早稲田野球部は軍部や文部省のブラックリストに組み入れられることになる。

 が、飛田は平気の平左だった。洋服だって鉄砲だって全部あちらから来たもんじゃないか。野球だけがなぜ悪いんだ戦地に駆り出されるその日まで、心身を鍛えるためにわれわれは野球をやっている。柔剣道がよくて野球がだめだというのは、断じて理解できない

水戸っぽの面目躍如たる飛田の堂々とした主張に、さしもの野球弾圧勢力も手を出すことはできなかった。そして野球部員たちも、心身を鍛えるための野球であり、野球は有事に役立つという飛田の言を、見事に実証してみせる。

文部省が主催する明治神宮水泳場-井の頭公園間の往復武装競走。全国の大学を対象に、軍事教練の成果を競うための催しに、野球部は早稲田の球技各部を代表して敢然と出場する。一チーム17人編成で、それぞれが重さ4キロの荷物を背負い、隊列を組みながら往復20キロ以上を走り通す過酷なレースである。

 成績が悪ければ野球をやめさせる口実にしよう。早稲田当局にはこんな思惑が働いていた。

 出場は100チームを超し、陸上部、スキー部など走ることが専門の選手で固めたチームや、この競走のために軍事教練などで鍛え上げたチームがほとんど。飛び入り参加に等しい野球部が、さんたんたる成績に終わるのは目に見えていた。

ところが、結果は16位に食い込む大健闘。大学当局に弱みを握られるどころか、飛田の主張通り野球は心身を鍛えるのに有効なスポーツであることを、野球部員は身をもって示した。意地と執念の力走。当局の思惑は見事に外れ、当面、野球部への露骨な干渉は手控えられた。

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 慶応側から持ちかけられた出陣学徒壮行早慶戦の実施をめぐる、早稲田野球部と大学当局の議論は平行線をたどるばかりだった。すでに10月も半ば近くとなり、秋は日一日と深まりを見せている。うかうかすると学徒出陣が始まる12月が間近に迫り、野球どころではなくなってしまう。だが、早稲田にもサムライはいた。状況の打開へ、学生野球史上に残る一大決断は、まさにここで生まれたのだった。

 その中心人物が、当局の説得に奔走してきた野球部長の外岡茂十郎と、野球部マネジャーである相田暢一の2人。試合挙行で一致する2人は、慶応野球部長の平井新に対し早稲田野球部としてお受けしますと返答するとともに、試合期日を10月16日午後1時開始。場所は戸塚球場でと決定する。大学当局の了解を得られないままの見切り発車。賽(さい)は投げられたのである。

 大学の方針を逸脱したとあれば、外岡先生は立場上、処分を受けても仕方がない。ところが先生は“私は覚悟しております。職を賭していますから”とおっしゃった。涙が出る思いでした

感動的でさえある相田の回想である。

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